クッションの下の時間 ――モジャという、家族のこと

ある事情があって、
リビングと和室を片づけることになった。
まあ、人生というのは、いつも「ある事情」だらけである。

その流れで、ずっと見て見ぬふりをしてきた場所に、
とうとう手を伸ばすことになった。

モジャのケージ。
正確には、そのケージの上に積み上げたクッションである。

何枚か重ねられたそのクッションを、
ほんのちょっと、どけてみようかと手をかけた、その瞬間。

……あきませんでした。

その下には、止まっていた時間がそのまま。
モジャが最期を迎えたときのままになっていたのです。

夜中、
わたしは、泣きました。

ああ、わたし──
動けなかったんやない。
動かしたくなかったんや。

場所だけやない、

時が動かなくなった

のではなく、時を動かしたくなかったんやな。

そう気づいたとき、
胸の奥がきゅーっとなった。

いや──
どけるまで、忘れていたんです。

その場所を、モジャの旅立ちのままにしていたことを。
目には入ってたのに、
心では見てなかったんやな、と思いました。

モジャは、外が好きな子でした。
最後は、網戸越しに風をかぎ、空をじっと見てた。
元気なころは、ご近所パトロールが大好物で。

いまも、どこかをふらりと散歩してるだけ。
そう思っていたかった。

けど、クッションをどけたことで、
その幻想は、幻想だったんやなと、わかりました。

瞬間的に、この場所だけは、「相方と一緒に」整理しようと決めました。
そして明け方、ふたりで片づけました。
(※片づけ始めたのが夜更けだったので、相方はおやすみ中)

そして朝になって、
わたしはいつも通り、通勤電車に乗った。

揺れた拍子なんか、ようわからんけど──
いきなり、ズドン。

どっかーん、でもなくて、ぽすっ…でもなくて、ズドン。
まるで、心の床板が一枚、バコッと抜けた感触。

ズドン。

これが、よう言われる“あとからくる喪失感”っちゅうやつなんやろなぁ、と思いました。

気ぃついたら、電車の中で鼻すすってもうてて。
なんやろうね、涙ってやつは。ちゃんとタイミング見てくれへん。

でもその“それ”と一緒に、
どこかで空気が広がっていく感じもしてました。

ほんの少し、胸の奥に風が通るような。

わたしの時間も、きっとまた──
動きはじめたんやと思います。

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とし

心身一如。心と身体は、つながってる。
自分の更年期を通して、
心と身体のバランスの大切さを
ほんまに感じました。

疲れたときは、
無理せんと、まずはひと息。

自然の中で、
おいしい台湾茶でも飲みながら、
そんな時間を、私は、大切にしています。
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