『階段の上と、わたしの道と。』

これは、あの頃のわたしが、
どんなふうに受けとめ、どんなふうに歩いてきたか——
そんな小さな記録やで。

  誰を責める気も、良し悪しを裁く気も、
  これっぽっちもありゃしません。
  ただ、わたしの胸の奥にそっと残ったものを
  振り返って書いてるだけの話です。

「あの頃のマイブーム」

人の学びの場というのは、ふしぎなところで。
そこにいる間は空気の温度や湿度までが
その場の価値観に染まってしまうようなところがある。

わたしが心理の講座を2年間つづけていた頃も、
そんな空気がたしかに流れていた。

(他にもブログ講座や発信講座も合わせたら、
興味の向くまま動き続けていた時期は、だいたい5年くらいやったと思う。
もっと言うなら、キャリコンの勉強も含めて、
幼いころから心の世界にはずっと興味があって——わたしにとっては“生涯学習”みたいなもんやな。
その中でも、いちばん記憶に残っているのが、この2〜5年間の学びやった。)

どの講座でも

「独立するのが一番」
「学んで資格を取って人を救う存在になれるかも」
「上の階層へ行くことが成長だ」

そう言葉にされなくても、
部屋の隅っこに置かれた空気清浄機みたいに、
静かにふわ〜っと漂って、人の胸に入りこんでくる。

と当時のわたしは受け取っていたね。


“心理カウンセラーとして独立できたらええよなぁ” と。
でも同時に会社員として働く自分も好きやったし、
仲間と一緒に動く日々も大切やった。

なにより、
「わたしの人生は、階段じゃなくて“道”なんやな」
と、どこかで知っていたんだと思う。

【高額講座の“階段構造”という不思議】

心理の世界に限らず、
「階段」がある学びの場には、よく似た匂いがある。

初級、上級、アドバンス、資格、公認。
ステップを上がるたびに
「もう少し続けたら、もっと良い自分になれる」
そんな期待がくすぐるように差し出される。

ときには、大金をつぎこんでしまって、
にっちもさっちも動けなくなっている人もいる。

その姿を見ると、
胸の奥がヒリッとした。

(わたしも、わたしにとっての大金つぎこんでいたからなぁ)

“あぁ…これって心理の講座だけとちゃうんやな”

スピリチュアルでも、
コーチングでも、
ビジネス塾でも、
資格商材でも、
そして宗教でも——
どの世界にも、
どこか似た“構造”があるように思う。

善い悪いの話やなくて、
人は誰しも
「よりどころがほしい」「救われたい」
そんな気持ちを胸に抱いて生きている。

その思いが集まる場所には、
自然と似たような仕組みが
そっと形づくられていくんやろなぁ……
と今なら思う。

“自分を変えたい”
“今のままじゃ嫌や”
“特別になりたい”
“この生きづらさ、どうにかしたい”
“そもそも本来の自分てなんやねん”
——そんな気持ちを胸に、
階段に足をかけてまうこともある。

はしごから落ちそうになりながらも、
「もう少しで何かつかめる」
と自分を励ましている人もいる。

でも、

  • すいすい登る人もいれば
  • 息が切れる人もいて
  • はしごから落ちそうになりながら「もう少し」と励ます人もいる

ほんま、いろいろや。

よくあるのは
「私って感覚タイプなのよね〜」と主催者が言いながら、
実際はめちゃくちゃロジカルで戦略家だったりするやつ。
(あれはもう職人芸やと思う。)

でも、その人の“感じ方”はその人のもので、
学んだからといって同じようにできるわけではないんよね。

【講座内での同調圧力】

当時、講座が進むにつれて、
まだ学びの途中にもかかわらず、
人の心に“つっこむ役”をやりはじめる人たちが出てきていた。

その場にいると、それがまるで当然の流れのように見えてしまう。
空気に背中を押されるように、
私自身も「そこ掘り下げるところやない?」なんて
口にしてしまっていた。

あとから思い返すと、
あぁ……あれって“同調の空気”やったんやな、と気づいて、
ぞわっとした。

いまの私が強く感じているのは、
一番安心であるはずの場所が、
いちばん人を傷つけてしまう危険をはらんでいたということ。

“助けたい”“寄り添いたい”という気持ちと、
“その場に適応したい”という無意識の焦りが混ざると、
善意のつもりが、人の心を深くえぐることがある。

人の心を扱う場で起きる暴力って、
殴ったり怒鳴ったりすることだけではない。
空気の力で、じわじわと人を追い詰めてしまう——
そんな形もある。

あの頃の私は、
その“空気の一部”になっていた

そんな自分を思い出すと、
正直、いまは虫唾が走る。

でも、ああいう経験があったからこそ、
「安心・安全って、口で言うほど簡単やない」
と深くわかった気がする。

そしてもうひとつ。
あの時間の中で学んだことは、
いまのわたしの生き方にも、ちゃんと息づいている。
身になったものも、心に残ったものも、たくさんあるねん。

【羨ましさも、ほんまの気持ち】

それでも、受講中・後、階段をすいすい登っていく人を見ると、
やっぱり少し羨ましかった。

「あぁ、あの人は行けるんやなぁ……」
「あれができたら、私も変われたんかな」

ほんまのところ、そんな気持ちもあった。

でも、冷静に見ていた自分もおった。

登りつづけられる人は、ほんまに一握り。

そしてその“一握り”に入れなかったわたしを
誰かが責めたわけでもない。
責めていたのは、わたし自身だった。

でも、ここでひとつだけ書いておきたい。

あの講座で出会った人たちの中には、
いま思い返してもしみじみ
「出会えてよかったなぁ」と思える人がおる。

まっすぐわたしを見てくれた人、
やさしい言葉をそっと置いてくれた人、
ただ寄り添ってくれた人。

あの時間を共有する中で
わたしにとっての“宝物”みたいな存在も混じっていた。

今もお付き合いしている人たちがいる

それがまた、人生のふしぎで、ありがたいところやと思う。

【いまのわたしが言えること】

いま振り返ると、
わたしが階段を降りた理由は、
「敗北」でも「挫折」でもなく、
わたしの道に戻った” というだけやった。

会社員でいる時間も好きやし、
音楽の仲間も大切やし、
ノノとオレオのいる生活も愛おしい。

わたしの人生は、
階段で測れるような単純な形じゃなかったんやなぁと
今はしみじみ思う。

階段を登ることが誰かの幸せなら、
それもいい。

わたしは、
自分の歩幅で歩く“道”の方が性に合ってた。

この気づきが、
心理の学びから一番もらった宝物かもしれない。

【締めのひとこと】

人の人生には、
上も下も、ほんまはなくて。

階段を登る人生もあれば、
海沿いを歩く人生もあって、
草むらでのんびり寝っ転ぶ人生もある。

誰かの階段を眺めて
「あぁ、ええなぁ」と羨ましく思ってもええし、
自分の道に
「これが私やな」と微笑む日があってもええ。

どの道も、その人の人生の“ほんま”やから。

わたしはこれからも、
自分の道を、自分の歩幅で、
やわやわと歩いていくで。

そしていつか、どこかで、
同じ時間をいっしょに過ごすときがあったら——
そのときは、どうぞよろしゅうたのみます。

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とし

心身一如。心と身体は、つながってる。
自分の更年期を通して、
心と身体のバランスの大切さを
ほんまに感じました。

疲れたときは、
無理せんと、まずはひと息。

自然の中で、
おいしい台湾茶でも飲みながら、
そんな時間を、私は、大切にしています。
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