― いまここ庵より ―
小さい頃から、
どうも私は、どこにいても少し違和感があった。
ときにはそれが
胸の奥の欠乏感みたいになることもあるし、
はたまた、
「なんか合わへんなー」
それだけのことやったりもする。
今思えば、
その違和感のいちばん最初は、
親子関係やったな。
親のやっていた宗教やら、
ちょっとDV気質なしつけやら。
子ども心に、
うまく言葉にはできへんけど、
「なんか、ちょっと違うなぁ」
そんな感じがどこかに残っていた。
それともうひとつ、
保育園のころに
なんとなく悟ったことがある。
うちは貧乏やったから、
ときどき思ったのだ。
寝て、
明日の朝起きたら、
あの子になってたらええのになぁ、って。
お金持ちで、
お父さんもお母さんも優しそうな、
あの子。
「ビビデバヒデブ」
でも、
朝起きても、
やっぱり私は私で。
そのたびに
子どもなりに
「なんでやねん」と
地団太を踏むような気持ちになった。
けれど、
何度朝を迎えても、
私は私のままで。
ああ、そうか。
私でない誰かには、
なりえへんのやなぁ。
そんなことを、
子どもながらに
早々と悟った気がする。
「ここではないどこか、私ではない誰か。」
これはきっと、誰もが一度は抱く
問いのような気がしている。
「ここどこ。」「わた誰。」
そんな、ちょっとした迷子みたいな問い。
それでも人生を歩いていると、
ときどき顔を出す。
いや、
顔を出す機会は、ようけあるような気がする。
うまくいっていないと感じるときは、特にな。
「ここではないどこか」
「私ではない誰か」
そんな呪文みたいなものが。
洋服に例えると
ちょっと丈の合わない上着やったり、
ちょっとピチピチのジーンズみたいな
うーん…なんかちょっとちがうなぁの違和感。
だんだん
「おっ、こんな色?」
「こんな形?」
「こんな系統もあるん?」
と広がっていって、
ほんなら
「こんなんもあるん?」
と、ちょっと着てみたりする。
「にあわへんやん」やったり
「おっ、意外といけてるやん」
なんて思ったり。感じたり。
そんなふうにして
私はここまで来た。
そんな違和感が元で、
カウンセリングうけたり
カウンセラーをやってみたり、
心理の勉強をしてみたり、
スピリチュアルに影響を受けたり。
いや、
どれひとつとして
無駄なものはなかったと思う。
ただ今になって思うのは、
あれはきっと
結局、自分というところへ
戻ってくる旅
みたいなものやったのかもしれない。
今でも、
心の本やスピリチュアルの話は好きやし、
つい手に取ったりもする。
ただ、昔みたいに
そこへ答えを探しに行く感じではなくて、
「ああ、そういう見方もあるんやなぁ」
そんなふうに
横に置いて眺めるような
付き合い方になった気がする。
今でも、
ふと
「ここではないどこか」
の呪文が顔を出すことがある。
けれど最近は、
昔みたいに焦ったりはしない。
ああ、
またおいでなすったなぁ。
そんなふうに
ちょっと笑って
受けとめられる。
私でない誰かには、
なりようがない。
気がつけば
ここに腰をおろしている。
遠くへ行くわけでもなく、
誰かになるわけでもなく。
ただ、
私として生きている。
一つの場所にもなっているなぁ。
それが、
いまここ庵
なのかもしれない。
― 2026年 春、いまここ庵にて ―

